傷物語 Ⅲ冷血篇
「僕はお前を、助けない」
こうして始まりは終わる。
アニメ版『傷物』もこれにて完結。状況を只管ベラベラ語るだけだった『鉄血篇』、本当に戦い続けただけで終わった『熱血篇』と違い、今回は一気呵成に畳み掛けるように結末に突き進む。前回までのあらすじ、みたいな要素が無いどころか前回がどういう話でどう繋がっているのか特に言及も無いまま、さも当然のように始まるほど大胆にネタを削ぎ落している。それがかなりの勢いを生んでいると思われる。
また、もともと一本綺麗に纏まった形で発表された作品の、その最後までなのだから当然ではあるが、前二作より終わり方は圧倒的に綺麗(ハッピーエンドとは言っていない)。削られたネタのバランスがかなり私好みになっているのもあって、総じて満足度の高い映像化だった。
唯一の不満点は、『熱血篇』同様阿良々木くんたちの再生速度が原作での描かれ方に比べてやたら遅そうなこと。一応、これについては今回を見ている中で納得の行く説明を思いつきはした。たぶん、キスショットと話を重ねているのだろう。キスショットは四肢(+心臓)を失った状態では子供になっており、そこから徐々にあるべき状態へと戻っていった。これと同様に、体が再び分化、成長をし直して欠けたパーツになる、というノリで描いていたのではないか。という風に考えれば分からないでもないが、好き嫌いで言えば嫌いな変更ですね。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード及びその眷属は常軌を逸した不死身具合が魅力の一つだと思っていたもので。
さておき。幾つかの言っておきたいこと。先ず、忍野が心臓を持っていたこと。これ、作中の現象としては全く唐突な真実ですが、読者向けの次元では伏線があるんですよ、一応。三人の吸血鬼ハンターの名はそれぞれドラマ「ツルギ」ー、エピ「ソード」、「ギロチン」「カッター」、で何れも刃物を含んでいる。そして、各人が持つキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの体のパーツはそれぞれ右脚、左脚、両腕である。名前に含まれる刃物の数と持っているパーツとが比例関係にある。ここで、忍野の「忍」という字には「刃」更に言うなら「刀」が含まれている。だから、彼がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードのパーツを一つ持っていてもおかしくないのさ。
これは、作中の次元においては全くの偶然である。名前に刃物を含んでいるハンターたちが、その名前の刃物の分だけパーツを手に入れるなんて意図的にやるわけがない。まるで意味が分からない。しかし、物語を見ている読者の次元では確かに意味が成り立つのだ。そういうことも世の中にはある、ということを言っておきたい。
それから、吸血鬼の食事を見せつけられた後、更には自分が吸血鬼であることを自覚した阿良々木くんの懊悩。これだよ、これ。これがあるから私は『傷物』を好きになった。この件をどう見せてくれるか楽しみで私は今までアニメ版『傷物』に付き合ってきた。私は、吸血鬼のロマンはまさにこれにあると考える。即ち人が人としての知性や記憶を保ったまま本能がすり替わっていることに気付いた時、もしくはその後の悩み。これこそ吸血鬼ものでなければ中々お目にかかれない代物だ。吸血鬼とはただの血を吸う怪物ではない。血を吸うだけなら蚊でも出してればよろしい。
そして、映像作品になって初めて気付いたこと。原作の最後はこのように記されている。
私が『傷物』で好きなところと言えばもう一つ。「僕はお前を、助けない」この言葉は欠かせない。阿良々木くんが助けを乞う相手に「助けない」と言ったのはこの時だけだ。などと言うとアッサリ覆されかねないのが、西尾維新の恐ろしいところだが、まぁ、二千十七年一月六日現在はそうだ、ということだ。いや、私も本当に全てを隈なく調べたわけではないのでひょっとしたら何らかの見落としがあるかもしれないが、たぶん。兎に角。阿良々木くんの非常に珍しい言動ということだよ。どうしたって印象に残る。
この劇場版の際立った変更点の話をしよう。今回は全体的に与太話要素が削られているが羽川にはやたら尺をとって残っている。反面、羽川が必要以上に凄いところを見せた描写が削られている。具体的には、従僕が主人を殺すことで吸血鬼から人間に戻れるとか、眷属を造るのは性行為に近いと言われるとかいった作中における吸血鬼蘊蓄を見せる描写がことごとく無くなっている。まぁ、これは冷静に考えると、作中世界における吸血鬼知識ってどうなってるんだと結構不思議になってくるところですからね。無くなったのは妥当でしょう。
と同時に、前者が無くなったことで阿良々木くんにキスショットとの決闘をさせる件の意味合いが変わっている。そこに、ギャグだけは残っているのでが合わさって、頭は良いがどこか馬鹿な印象がある。結果的に得意満面で真相を暴くもタイミングが悪いため全てをぶち壊しにしてしまう結末がある意味すごく自然になっている。
原作だと、阿良々木くんの挙動を巧みに掌の上で躍らせ切るというまるで黒幕のようなことをしながら、キスショットの真意をあのタイミングで暴いてはいけないということに気付かない間抜けさで、ハッキリ言ってかなり無茶苦茶なんだよね。もっと言うと、何かをやろうとしている人の行動に水を差して話の方向を無理矢理変えてしまう舞台装置という感じで、私はそれが全く好きになれなかった。それが、頭は良いがどこか馬鹿な人が実際馬鹿なことをしたと纏められるノリになり、かなりスカッとした。
兎にも角にも。このようにして、始まりの『物語』は終わった。ここまで来たら後は、終わりの物語を始めるだけですね。『終物語』の残りのアニメ化を。私は別にメディアミックス展開をすることそのものに価値があるとは全く思っていないが、『終(中)』までの作品は曲がりなりにもすべて映像にしたのだ。『終(下)』だけ残すのはあまりにも片手落ち。いつでもかかってくるが良い。私は言いたい放題する準備をこの数年間固めているのだ。
こうして始まりは終わる。
アニメ版『傷物』もこれにて完結。状況を只管ベラベラ語るだけだった『鉄血篇』、本当に戦い続けただけで終わった『熱血篇』と違い、今回は一気呵成に畳み掛けるように結末に突き進む。前回までのあらすじ、みたいな要素が無いどころか前回がどういう話でどう繋がっているのか特に言及も無いまま、さも当然のように始まるほど大胆にネタを削ぎ落している。それがかなりの勢いを生んでいると思われる。
また、もともと一本綺麗に纏まった形で発表された作品の、その最後までなのだから当然ではあるが、前二作より終わり方は圧倒的に綺麗(ハッピーエンドとは言っていない)。削られたネタのバランスがかなり私好みになっているのもあって、総じて満足度の高い映像化だった。
唯一の不満点は、『熱血篇』同様阿良々木くんたちの再生速度が原作での描かれ方に比べてやたら遅そうなこと。一応、これについては今回を見ている中で納得の行く説明を思いつきはした。たぶん、キスショットと話を重ねているのだろう。キスショットは四肢(+心臓)を失った状態では子供になっており、そこから徐々にあるべき状態へと戻っていった。これと同様に、体が再び分化、成長をし直して欠けたパーツになる、というノリで描いていたのではないか。という風に考えれば分からないでもないが、好き嫌いで言えば嫌いな変更ですね。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード及びその眷属は常軌を逸した不死身具合が魅力の一つだと思っていたもので。
さておき。幾つかの言っておきたいこと。先ず、忍野が心臓を持っていたこと。これ、作中の現象としては全く唐突な真実ですが、読者向けの次元では伏線があるんですよ、一応。三人の吸血鬼ハンターの名はそれぞれドラマ「ツルギ」ー、エピ「ソード」、「ギロチン」「カッター」、で何れも刃物を含んでいる。そして、各人が持つキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの体のパーツはそれぞれ右脚、左脚、両腕である。名前に含まれる刃物の数と持っているパーツとが比例関係にある。ここで、忍野の「忍」という字には「刃」更に言うなら「刀」が含まれている。だから、彼がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードのパーツを一つ持っていてもおかしくないのさ。
これは、作中の次元においては全くの偶然である。名前に刃物を含んでいるハンターたちが、その名前の刃物の分だけパーツを手に入れるなんて意図的にやるわけがない。まるで意味が分からない。しかし、物語を見ている読者の次元では確かに意味が成り立つのだ。そういうことも世の中にはある、ということを言っておきたい。
それから、吸血鬼の食事を見せつけられた後、更には自分が吸血鬼であることを自覚した阿良々木くんの懊悩。これだよ、これ。これがあるから私は『傷物』を好きになった。この件をどう見せてくれるか楽しみで私は今までアニメ版『傷物』に付き合ってきた。私は、吸血鬼のロマンはまさにこれにあると考える。即ち人が人としての知性や記憶を保ったまま本能がすり替わっていることに気付いた時、もしくはその後の悩み。これこそ吸血鬼ものでなければ中々お目にかかれない代物だ。吸血鬼とはただの血を吸う怪物ではない。血を吸うだけなら蚊でも出してればよろしい。
そして、映像作品になって初めて気付いたこと。原作の最後はこのように記されている。
これ、音が付いて初めて分かったのだが、ひょっとして「癒えない」傷の「言えない」物語、という掛詞だったのか。つまり、癒えない傷の物語は誰にも言えない(ものだから)僕はそれを誰にも語ることはない、という。私はこのフレーズが本当に好きで、最初の「キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードのことを(以下略)」とか「吸血鬼にまつわるこの物語はバッドエンドだ(以下略)」とかと並んで『傷物』の好きなところなんだが、この掛詞には今まで気付かなかった。この考えを得られただけで、この映画は見て良かった。決して癒えない――僕達の、大事な傷の物語。
僕はそれを、誰にも語ることはない。
『傷物語』355頁
私が『傷物』で好きなところと言えばもう一つ。「僕はお前を、助けない」この言葉は欠かせない。阿良々木くんが助けを乞う相手に「助けない」と言ったのはこの時だけだ。などと言うとアッサリ覆されかねないのが、西尾維新の恐ろしいところだが、まぁ、二千十七年一月六日現在はそうだ、ということだ。いや、私も本当に全てを隈なく調べたわけではないのでひょっとしたら何らかの見落としがあるかもしれないが、たぶん。兎に角。阿良々木くんの非常に珍しい言動ということだよ。どうしたって印象に残る。
この劇場版の際立った変更点の話をしよう。今回は全体的に与太話要素が削られているが羽川にはやたら尺をとって残っている。反面、羽川が必要以上に凄いところを見せた描写が削られている。具体的には、従僕が主人を殺すことで吸血鬼から人間に戻れるとか、眷属を造るのは性行為に近いと言われるとかいった作中における吸血鬼蘊蓄を見せる描写がことごとく無くなっている。まぁ、これは冷静に考えると、作中世界における吸血鬼知識ってどうなってるんだと結構不思議になってくるところですからね。無くなったのは妥当でしょう。
と同時に、前者が無くなったことで阿良々木くんにキスショットとの決闘をさせる件の意味合いが変わっている。そこに、ギャグだけは残っているのでが合わさって、頭は良いがどこか馬鹿な印象がある。結果的に得意満面で真相を暴くもタイミングが悪いため全てをぶち壊しにしてしまう結末がある意味すごく自然になっている。
原作だと、阿良々木くんの挙動を巧みに掌の上で躍らせ切るというまるで黒幕のようなことをしながら、キスショットの真意をあのタイミングで暴いてはいけないということに気付かない間抜けさで、ハッキリ言ってかなり無茶苦茶なんだよね。もっと言うと、何かをやろうとしている人の行動に水を差して話の方向を無理矢理変えてしまう舞台装置という感じで、私はそれが全く好きになれなかった。それが、頭は良いがどこか馬鹿な人が実際馬鹿なことをしたと纏められるノリになり、かなりスカッとした。
兎にも角にも。このようにして、始まりの『物語』は終わった。ここまで来たら後は、終わりの物語を始めるだけですね。『終物語』の残りのアニメ化を。私は別にメディアミックス展開をすることそのものに価値があるとは全く思っていないが、『終(中)』までの作品は曲がりなりにもすべて映像にしたのだ。『終(下)』だけ残すのはあまりにも片手落ち。いつでもかかってくるが良い。私は言いたい放題する準備をこの数年間固めているのだ。
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